2010年11月4日更新
「日本の食卓にワイン」の文化を浸透させた田崎真也さん。25歳の若さでソムリエ日本一となってワインブームの火付け役となった。37歳にしてフランス人以外で初となるソムリエ世界一の王座に輝き、「ワインはフランス人のもの」という世界の常識を覆した。華やかな実績とは裏腹に、世界の頂点を極めるまでにはいく度もくじけそうになったという田崎さん。その転機と仕事哲学とは?
-

- 夏休みのアルバイトで
スナックを任される - 高校2年の夏休みに新島のスナックでアルバイトをする。「もうじき20歳」ということで店長業を任され、接客サービスの魅力に目覚める。
釣りと魚料理が得意だった少年時代
ソムリエにつながることを思い起こすと、子どもの頃から僕はとにかく凝り性でした。小学生のときは昆虫博士、中学時代は魚に凝り、ひとつの分野を徹底的に極めたくなるところがありました。本当は高校生以上でないと入会できない釣りクラブにも、何としても入りたくて3歳上の年齢を言ってもぐりこみました。3年分の釣り知識と経験をカバーしようと、釣り雑誌のバックナンバーを取り寄せて読み、毎朝、家の裏にあったグラウンドで投げ釣りの練習をして腕を磨き、背伸びしていました。釣ってきた魚は自分でさばいて煮魚を作るくらい、料理上手な少年でもありました。
中学卒業後、工業系の高等専門学校に進学しましたが、釣りクラブの先輩に誘われ、高校1年の夏休み、新島で海の監視員のアルバイトをしたんです。先輩たちに18歳と告げていたため、本当は15歳なのに他の高校生を後輩扱いしながら、まかないも作っていました。その生活が楽しくて、「僕の魚好きは、海が好きだからだ。将来は海の仕事をしよう」と思い、父親に反対されながらも静岡にある国立の海員学校に編入しました。
翌年の夏も新島に誘われ、今度は16歳なのに「もうじき20歳だから」と、スナック店をひとりできりもりする仕事を紹介されました。自分でメニューを考え、東京から食材や飲み物を準備して運んだんですよ。とにかく必死でした。それでもこのことが、僕の人生の大きな転機となりました。10代の3歳違いって大きいですよね。僕は25歳でソムリエ日本一になるまで年齢を上に見せながら、ばれないように陰で努力を重ねたことも、チャンスを早くつかめた要因だと思うんです。
- 16
- 歳
-
自分の作った料理に「ありがとう」と言われ感激
その夏は、若干16歳で飲食店を丸ごと任されたのはもちろん、それ以上に印象に残っているのは、お客様にお金をいただきながら「ご馳走さま、おいしかったよ、ありがとう」と言っていただけたこと。「飲食店とは、なんていい所なんだろう」という至福の喜びを感じ、「僕は海が好きなのではなく、料理が好きだったんだ」と、料理人を目指す決意をしたんです。もっともそのときはまだ、同じ飲食でも、調理とサービスが別々の仕事であるという認識は全くありませんでした。
「海の仕事をする」という目標がなくなったことで、海員学校は17歳でやめ、東京に戻って飲食の仕事を始めました。しかし、1つのお店を長い期間続けるということはありませんでした。最初は、和食の板前修業に行ったんですが、3カ月経っても野菜を洗うばかりで「これは違うぞ」と思い、フレンチコックの修行に3カ月行っても、鍋を洗わされ続けて「これも違う」と思い、辞めてしまいました。凝り性だった僕は、すでに本もたくさん読んでいて、料理の技術も知識もあるのに、料理人の世界は15年修行してやっと一人前と認められるところ。つまり、15年でたった1軒の店の仕事しか覚えられないということに納得がいかなかったのです。
料理人としてクリエイティブな発想力を養っていくべき時期に、ひとつのスタイルを習得するためだけに怒鳴られながら時間を失っていくのはおかしいと思ったんですよね。後にフランスに行って知ったことですが、例えばシェフになりたいフランス人は学校卒業後、3カ月ごとに店を変わって、2年間の修行期間で8軒の店を経験しながら自分のスタイルを確立していきます。皿洗いはしません。僕もただ嫌で辞めるのではなく、「次はこれをやりたい」という意思があって何店舗も渡り歩いたわけで、自分は間違っていなかったと確信しました。やりたいことが明確で、覚悟があれば、「石の上にも3年」なんて我慢は必要ありません。













