300万部を超える大ベストセラーとなった『女性の品格』の著者として知られる坂東眞理子さん。東京大学卒業後に総理府入省。その後も様々な役職を歴任し、現在は昭和女子大学の学長を務める。華やかに見える経歴も、実は34年に渡る異動や出向の繰り返しに翻弄されてきた部分も大きかったという。そんな状況の中、常に自分が置かれた立場を前向きにとらえ、一つ一つの経験を強みに変えて道を切り開いてきた、坂東さんの仕事哲学とは?
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- 日本初の「婦人白書」を
自ら提案して執筆担当に - 「青少年白書」を担当したことにより書くことのやりがいに目覚める。婦人担当問題室の異動に伴い、誰も書いていなかった日本初の「婦人白書」を提案し、一人で執筆担当を任されることに。
「何もできない人間なんじゃないか」と苦しんだ20代
「大卒女性に就職試験を受けさせない」そんな時代があったことをご存知でしょうか。私が東大を卒業した1969年は、まだそれが普通でした。私には公務員として特にやりたいことや目標があったわけではないのですが、消去法で考えると、就職するには数少ない省庁での募集を当たるしか術はありませんでした。たまたま卒業の年に総理府(今の内閣府)で女性職員を一人募集していたのを見つけ、なんとか合格。就職できたということだけで嬉しくてしかたありませんでした。
上級総合職としての採用とはいえ、はじめはお茶汲みやコピー取りなどからスタートしたんですが、これが失敗ばっかりで。コピーを取るにしても、歪んで取ってしまったり、ホッチキスを閉じ間違えた書類が一番偉い人の手元にいってしまったり(笑)。「またやっちゃったの?」「すみません!」そんなことの繰り返しだったんです。学生の頃は肩書きのある人たちが世の中を動かしていると思っていたんですが、仕事を進めていくうちに、実際の現場は叩き上げの人たちが支えていて自分たちはその上に乗せてもらっているんだということに気づきました。それはすごくいい経験でしたし、現場の人たちからいろいろなことを学び取ろうと思っていたんです。ただ一方で、自分が今まで勉強してきたことは、職場では全く役立たないのだろうか、と不安に思っていましたね。
私は24歳で結婚、26歳で出産しましたが、特別な能力のない自分が一度仕事を辞めたら、再就職も転職もできない。かといって専業主婦を上手くやれるタイプでもない。だから、仕事に自信が持てるまでは、とにかく働き続けたいと思っていました。でも当時は、慣れない子育ても重なって「自分は何もできない人間なんじゃないか」と感じ、とても苦しい時代でした。
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初めて手にした「書く」という強み
20代は苦しいことも多かったのですが、そんな中でも自分にできることをやっていこうとは考えていました。 省庁は残業が多いのですが、国会待機などの待ち時間が長いんです。そういった時間を使って、コツコツと報告書などを書いているうち、少しずつ文章を書く仕事が回ってくるようになり、27歳のとき、「青少年白書」の執筆アシスタントをやらせてもらえることになりました。
「青少年白書」の仕事では、アシスタントとはいえ一冊の白書ができあがるプロセスに関われたことが大きかったですね。白書というものは政府が出す文章なので、最終的には閣議まで承認が上がるのですが、最初は私たちのような担当者が資料を集めて書き、それを上司や官房、他省庁とすり合わせます。その際、いろんな意見の先生方を説得する材料となるのが客観的データ。いかにその準備を整えて納得してもらうか、オンザジョブトレーニングで、政府の文章の書き方と仕事の進め方を鍛えられました。また、その仕事を通して、自分が書いたものが本になって世の中に出ていく喜びも知ることができましたね。
そして29歳のとき、「国際婦人年」に合わせて、今の男女共同参画室の前身である「婦人担当問題室」が置かれ、各省庁から女性の課長補佐が集められました。私はそこで「『婦人白書』をつくるべきです」と主張したんです。「青少年白書」の仕事で感じた喜び、自分にとって初めて強みにできるかもしれない「書く」というスキルをなんとかここでつなげたかったんですよね。その結果、日本初の「婦人白書」を一人で執筆できることになりました。
「婦人白書」作成には苦労も伴いましたが、やっと「自分の仕事をしている」というやりがいを感じることができるようになりました。ところが、自分で「これはいいことが書けた」と思っても、各省庁に確認を求めると「根拠がない」と一蹴されてしまい、採用される原稿はたった2~3割。「公文書に盛り込めない政策提言や分析を、自分の言葉で書けたらどんなにいいだろう」という思いが私の中で高まりました。
こうして32歳のときに「婦人白書」が完成。担当者として新聞の取材を受け、その記事を見た出版社から、女性をテーマとした本の執筆依頼がきたんです。もう書きたいことが溢れ出て、「自由に書けるって、何て楽しいのだろう」と思いながら書き上げました。その後も出版依頼があれば、夜と週末を利用して執筆を続け、気づけば公務員生活の中で手掛けた著作は32冊にもなっていました。









