三浪の末の大学合格、29歳で高校教諭、そして40歳でサイエンスプロデューサーとして独立。常に遅咲き人生を歩んできた米村でんじろうさんだが、今や科学の楽しさを伝える伝道師として大人気、確固たる地位を築いている。そんな、“でんじろう先生”の仕事哲学とは?
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- 高校を卒業後、三浪を経て東京学芸大学へ進学する
- 「別段、教師になりたいと思ったわけではないですが、入れる大学を探して受けて、合格できたのが東京学芸大学でした」。その後、大学院に進み、結婚。研究者を目指しながら、自由学園の講師を続ける。
故郷の自然の中で、科学への興味を育む
少年時代を過ごした昭和30年代、僕が生まれ育った千葉県・市原市は、何もない山奥の町でした。今では道路が舗装され、ゴルフ場も増えましたけど、当時は未舗装の道路ばかりで、自宅は藁ぶき屋根。まだまだ戦前の農村、山村のような雰囲気でした。でも、子どもの遊び場になるような小川や、森林が周りにたくさんあって、そんな環境の中で、魚とりをしたり、虫とりをしたり、秋には山菜とりをしたり。明かりが少ないから夜空もすごくきれいでしたね。手先は割と器用なほうでしたから、遊び道具も自分で作りました。最初は木の枝にゴムを張ったパチンコ程度だったのが、次第にエスカレートして、ついには火縄銃になったり(笑)。
そうやって自然に親しむ中で、星や植物、生き物など、自然科学にどんどん興味がわいていった。それらについて教えてくれるのが、学校の理科の授業とNHKの実験番組でした。小学校の理科の時間は、簡単な工作や実験が大好きで、本当に楽しくてワクワクしていましたよ。成績は、理科だけは5段階評価で5とか4なのですが、ほかの教科は3か2ばかりだったなあ(笑)。学校の勉強が嫌いになってきたのは、中学2年生くらいでしょうか。理科の時間も実験が少なくなって、高校受験対策の授業が多くなっていきました。テストでいい点をとることにまったく興味がわかなくて、やりたくない。僕は素朴な子どもでしたから、面白いと思えば一生懸命やるけど、そうじゃないものはやらない。宿題もほとんどほったらかしで、やっていかない。よく居残りさせられました。
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三浪の末、消去法での大学進学
僕が15歳の頃に大阪万博が開催されました。宇宙旅行が実現するとか、ロボットと生活するようになるとか、当時は科学に対して「明るい未来をつくる」ものというプラスのイメージがかなり強かった。僕自身も科学は人類の夢を広げてくれる素晴らしいものと考えていましたし、将来は科学者や技術者になれたらいいなあと、漠然とした憧れを抱いていました。
そんな中、普通科の高校に進学。当時の日本は高度経済成長の波に乗り、大学進学率が急上昇していました。普通科の高校に行ったら「やっぱり大学には行きたい」と思うし、両親からも「国立なら」と言われて。理科が好きで理工系志望でしたけど、一期校の旧帝大系はまったく太刀打ちできず・・・。結果三浪することになって、最終的には二期校だった東京学芸大学の理科教育科へ。教師になるなんてこれっぽっちも思っていないのに、入れそうだからと思って受けて、何とか潜り込んだんです(笑)。
三浪していた3年間はめちゃくちゃつらかった。ほとんど引きこもり状態で、屈折しまくりの世捨て人みたいになっていました。毎日、毎日、「俺はこれからどうなっちゃうんだろう」って。だから、三浪後に大学に合格した時は、それまでのプレッシャーから解き放たれて、すごく楽になりました。
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- 米村でんじろう
- サイエンスプロデューサー
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- FILE.05
- 坂東眞理子
- 昭和女子大学学長
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- 野口健
- アルピニスト
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- 総集編
- 一歩を踏み出す原動力
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- FILE.07
- 藤巻幸夫
- 株式会社藤巻兄弟社 代表取締役社長




