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偉人たちの現導力

Vol.1織田信長の現導力

希代のカリスマ・織田信長が用いた自己プロモーション術

日本の歴史上、類い希なるカリスマ性を持った織田信長。しかし彼の出自は、決して恵まれたものではなかった。尾張の守護代・織田氏分家の世継ぎとして生まれたものの、若かりし頃は自らの立場を確立できず、反勢力からは「うつけ(=馬鹿者)」扱いまでされるなど、実はマイナスからスタートした人物でもあった。そんな信長がどうやって天下統一まであと一歩というところまで進むことができたのか。ここでは、現代のリーダーシップ論にも通じる、信長の卓越した「自己プロデュース力」に注目してみたい。

織田 信長 (おだ のぶなが)
肖像画:織田信長
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。尾張出身。織田信秀の嫡子。
桶狭間で今川義元を破って勢威をつけ、室町幕府を滅ぼし、織田政権を確立するが、本能寺にて明智光秀に討ち取られる。
豊臣秀吉、徳川家康に最大の影響を与えた人物の一人であり、江戸幕府に繋がる強力な中央集権の基礎を築いた人物。
織田信長のリーダー力
グラフ

1. 「うつけ」はなぜ天下統一に王手をかけることができたのか?

織田信長が生きた戦国の世は、人々の価値観が大きく転換した時代であった。国内では、権力を得るためならば主君でも親兄弟でも踏み台にしても構わないという、「下剋上」の理論がまかり通り、一方海外からは西洋的な思想や理論、さらには鉄砲に代表されるような未知の技術が流れ込んだ。これまでの考え方は通じない、そんな変化の時代に信長が、実にフィットした人物であったことは、歴史が証明するところだ。弟の信勝との権力争いに始まる“下剋上の王道”を天下統一に向けて突き進んだ信長は、戦術、築城術をはじめとする西洋の技術を大胆に取り入れた人物だ。若き信長が「うつけ」と呼ばれ、旧勢力から異端扱いされたことは、彼が時代の最先端を行く発想を持っていたことを示す証拠と言っていいだろう。

ただし信長が、“異能の人”だったから成功を収めたというわけではない。彼自身が新しい時代を築き、「我々(=部下や民衆)に利益をもたらそうとしている」のだということを、広く知らしめることに成功したからこそ、カリスマとして、多くの人の支持を集めることができた。実は信長は「自己プロデュース」と「プロモーション」に長けた人物だったのだ。

2. 戦は最大のプロモーション

信長の戦(いくさ)の歴史を振り返ってみると、印象的で、語るべき内容に富んだものが多いことに驚かされる。強大な今川軍を電光石火で打ち破った桶狭間合戦。戦国時代最強と言われた武田騎馬軍を新兵器「火縄銃」で打ち破った長篠・設楽原合戦。さらには信長自身が最前線に躍り出て闘ったと言われる天王寺合戦。いずれも信長の特別さをイメージさせる闘いであるが、その一つの典型とも言えるのが、1571年の比叡山焼き討ちだ。当時、軍事勢力の側面を持っていた延暦寺と対立していた信長は、これにただ勝利するだけでなく“焼き払う”と表現されるほどに、徹底的に制圧したと伝えられているが、ここで特筆すべきは、軍事的な成果そのものよりも、旧来の「道徳観」の代表とも言える宗教勢力を容赦なく“焼き払った”ことにある。既存の価値観に囚われることなく、やるべきことをやる人物であることを、広く印象付けることに成功した。

戦を通じてメッセージを発信する。実は信長はこの手法を、若い頃から活用している。10代で初陣を飾って以降、度々最前線で剣を振るったという記録が残されている。

信長が前線に出て雄叫びを上げ、剣を振るい味方を鼓舞する。その度に、自軍からは信頼と畏怖の念を、相手方には驚きと恐怖を与えてきた。その経験から信長は戦場での振る舞いが、いかに語られ、いかに人々に影響を与え得るかをわかっていた。言ってみれば、信長は、戦という仕事場が、自らを語るプロモーションの場であることを知り抜いていたのである。

3. 旗印にこめたメッセージ

信長がプロモーションを重要視していたことを示す興味深い事例は他にもある。それは信長が使った「旗指物」、つまり軍旗だ。この旗指物には、自らの守護神にまつわる言葉や記号を記す武将が多く、武田信玄が使った「風林火山」にまつわる旗印や、上杉謙信の毘沙門天の「毘」を使ったものなどがよく知られている。

ところが信長は、「永楽銭」を旗印に用いている。永楽銭とは、室町時代に当時の中国大陸から輸入された通貨のことで、当時、貨幣経済が浸透しはじめた日本で最も多く使われた小銭だ。現代で言えば、500円玉や100円玉をトレードマークにしたのである。軍神とまで言われた信長にしては意外に感じるかもしれないが、実はこれも戦略的なプロモーションだったと言えるだろう。信長が占領した土地にもたらすもの、それは恐怖でも収奪でもなく、当時最先端を行っていた楽市楽座を基盤とした"信長経済圏"なのだというメッセージを旗指物に込めていた。このように、信長は自身の行動に意味を持たせることで、自らのイメージを作りあげていったのだ。

4. 仕事をプロモーションとして捉える

織田信長という人物から何かを学ぼうとする際、信長の「カリスマ性からリーダーシップを」といったことや、彼の「勇猛果敢さや電光石火の戦いぶりから果敢な決断力を」……といった文脈に偏りがちだが、それよりも、彼が策と理論をもって臨んだ「自己プロデュース」と「プロモーション」の手法にこそ、注目すべきだと言えるだろう。仕事をメッセージとして捉え直し、自分が「何を目指し」ているのか、そしてそれが周囲に「何をもたらすのか」をはっきりと明示することができれば周囲の理解を生み支持者を作り上げることができるはずだ。最前線での仕事に、自分らしさを込める。そこから信長的リーダーシップは始まるのだ。

歴史学者 小和田哲男の解説
小和田哲男
解説者近影
  • 1944年2月1日生まれ。
  • 文学博士、歴史学者。特に日本の戦国時代に関する研究で知られる。
  • 静岡大学名誉教授
  • 当コラム監修
  • Point1 リーダーとして重要な「率先垂範」の姿勢

    織田信長のすごいところは、戦いにあたって、自ら先頭に立っていることです。桶狭間の戦いのときも、単騎清洲城を飛び出し、それを家臣たちが慌てて追いかけています。「率先垂範」という言葉がありますが、信長はそれを口でいうのではなく、実際に自らが演じてみせたところに信長らしさがあったといえます。今の時代においても、組織の長がまず行動に移すことで、部下たちも動きやすい環境を作り出せるのではないでしょうか。

  • Point2 多彩さと柔軟さで組織の発展を考える

    旗指物の図柄が永楽通宝だったというのもいかにも信長らしいといえます。信長は楽市楽座政策、関所の撤廃のほか、道路を広げ、道をまっすぐにし、川に橋を架けています。これは、商人の往来をしやすくし、商品流通をメインにした新しい国づくりをしようと考えたからです。武力という1つの方法にとらわれず、商業を含め、多彩な視点から組織の発展を目指した信長。個人、そして組織にも多事多難が訪れる現代の日本において、信長のような柔軟な発想を持ったリーダーが求められるはずです。

  • Point3 スローガンでビジョンの共有を

    1567年、信長が稲葉山城の斎藤龍興を逐って、そこを岐阜城と命名するとともに、「天下布武」の四文字を彫った印判を使いはじめます。これは、単に「武力で天下を取る」といった意味ではなく、それまで、公家(朝廷勢力)・寺家(寺社勢力)と並んだ形の武家が政治の中心になるというスローガンです。信長は、家臣や領民に自らビジョンを示すことで天下統一に邁進したのです。単に聞き心地のいい言葉を用いるのではなく、リーダー自身が持っているビジョンの中から生まれ出るスローガンを用いることで、自らの考えを周囲と共有できるのではないでしょうか。

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